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中子製造への挑戦
ユニオンパーツ工業中子製造 男たちの挑戦  −第1章−



 スズキ アルト
スズキ アルト SS30
1979〜1984





当時の中子造型機
当時の中子造型機


「社長とはどんなきっかけで知り合いましたか?」

 私は元々、この会社に入る前は鋳造関係の会社に勤務しておりました。
ただし、当時私は中子は直接担当しておらず、ユニオンパーツ工業という会社があることを知っていた程度でした。
社長とも面識がない状況でしたし、まだユニオンパーツ工業も創業まもなくの頃でした。
 その後、前にいた会社が工場を閉鎖することになりましたので、昭和50年代初期、30歳少し過ぎでしたからどんな道に行こうか考え、一時期はラーメン屋でもやろうかと思っていました。
その時ラーメン屋をやっていれば当たったかもしれませんね(笑)
その頃、同僚だった山口(現在専任職)は金型設計をやっていました。ひょんなことから、スズキさんの金型設計を手伝う機会がありました。そこで、スズキさんから山口をユニオンパーツ工業で使わないかという話がかかり、私も一緒にユニオンパーツ工業で働こうとついていったのが社長との出会いでした。私は山口の付録だったんですよ(笑)

 そうして、しばらくは山口と一緒に金型設計として図面を描いていました。専門外でしたが多少は図面が描けるかなという自信はありました。
ただ設計はじっと座っている仕事で辛い、中子を焼くほうが気楽でいいかなと思い、その頃、東洋シェルから中古の中子造型機を買って、ユニオンパーツ工業から出て場所を借りて二人で中子を焼き始めました。これが1年少し続きました。
同級生が建屋などを用意してくれそこで仕事をしていたのです。
ところが同級生の経営内容が不振になったことから、自分が買った造型機を引き上げ、ユニオンパーツ工業の工場の一角を借りて中子を焼くようになりました。
毎日毎日焼いていたのは中子の試作品。その頃までスズキさんは2サイクルがメインでしたが、スズキさんの新型車アルトのデビュー時となり4サイクルが始まりました。
試作をやっていて1個いくらという製造をしていました。良品が出来ればよいが不良品ばかり出来たら1日やっても無駄になってしまう。そこで造型の大切さを知り、中子の事を勉強しました。
半年から1年くらいたった頃、社長が来て「入社して一緒にやらないか?どうするか?」と誘われました。そこで入社を決めたのです。山口も同時に入社してきました。

「造型を覚えたのは独学ですか?」

 独学です。誰かに聞くとかではなく、社長も教えてくれるタイプではないし、当時いた社員も仕事が上手ではない状態だった。
そこで、不良品が出来たときは、おそらくこういう原因だろうと推測しつつ独学で良品を製造出来る技術を身に付けていきました。
会社の中で誰に教わったという先生はいません。入社前から良品を作っていくらという世界の中で働いていたので、工夫と覚えは自信がありました。
その経験が今でもプラスになったと思っています。

 しばらく山口は設計を、私は現場をやっていましたが、そのうちに社長が一度造型機を自社で作ってみようかと言い出しました。
そのきっかけは、静岡コーテッドサンドさんという会社があり、社長がかなりの技術屋で造型機を自分で作っていたが、その会社をやめたことによって造型機がいらなくなり、その中古を2台ほど社長が買ってきたことです。
その当時は造型した中子を手で造型機から取るというのが普通でしたが、その造型機は自動機でした。
まず、買ってきた自動造型機(以下 造型機)が動くか動かないかという試験を行い、動かした結果具合がいいので、その造型機をベースにして自分たちで造型機を作ろうという話になったのです。
そのタイミングで製造から製造技術へ担当を変わりました。
造型機での増産の為に造型機を大きくしていくことや、制御が電気であることから高校の電気科出身の技術を生かして勉強し、制御についても自分でやろうと取り組んでいきました。
社内に技術がなかった為、社長が親切に教えてくれる成立オートメに行って学び、今でも取ってあるこの造型機の制御をしました。
制御盤まで自分で作ることはなかったが、回路設計は自分でやり、故障時には対処出来る技術を持てるようになりました。
そのような流れで造型機を作っていきました。
当時、造型機は専門外のことだったのでロクな造型機は作れなかったと思います。それを陰で言う人もいましたが、今に見ていろと工夫を重ね造型機を作り続けるうちによいものが出来てきました。この造型機を手掛けたきっかけがスズキさんのアルトの増産時期だったからこそ、ユニオンパーツ工業もこの時期に一期に製造を伸ばしました。
スズキさんは中子を内製していない会社で、当時は作るだけ売れるようなことになり、増産要求にも「出来ます」という回答を続け、アルトの増産のお手伝いが出来ました。
 
 仕事が増えてくるに従い、ユニオンパーツ工業の製造工程にもさらなる努力が必要になってきました。
その頃まで造型機1台に対し、造型する人とバリとりをする人の2人の社員がついていましたが、それをなんとか1人で出来ないかと考え、自動化にトライをすることになりました。
それにはバリ取りの自動化が急務になり、ベルトチェーンで試すといけそうな感じでした。


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